2006 年 06 月
長いなあ
2006/06/22
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昨日キチガイ病院から帰りに、ふとそういえば先日からイラクで話題になった人質事件の映画が始まっているなあと思い出し、ウオーキングを打ち切って九条のシネヌーヴォへ。 そこで上にも書きましたが、占部房子演じる主人公の有子がイラクで拉致され帰ってきて約半年ほど経った頃からの話であるバッシングを見てきました。その感想です。 まず衝撃を受けたのは、映画のはじめに流された「この作品はフィクションであり、実際の人物・会社とは一切関係有りません」のテロップ。黒バックに二行のテロップでした。なんてか、その衝撃は昔エロゲーのココロという作品で、近親相姦ストーリーが見つかったため回収後に発売され物に「ゲーム中には血縁関係はありません」というようなテロップが開始前に流れたのと同一の感想でした。すなわち、私は「あの事件を題材とした映画」を見に来たはずなのに、開始 1 秒も経たないうちにその目的をつぶされてしまい、なんだそりゃと一気に見る気がなくなってしまいました。ただ、終わってから考えるとこのテロップが有ることにより映画に広がりが出来たと感じられました。この映画を見る場合、ほとんどの方がこのテロップの有無に関係なくバイアスがかかり「主人公=実被害者」と結びつけようとします。その効果を薄め、色々と脚本に込められたメッセージなどをあーだこーだと考えられるようになったと思います。多分これがなければ、終わった後の感想は「バッシングされていたんだ。かわいそうだなあ。」ぐらいしか残らなかったのでは無いのかと思います。 こういう題目を行う場合、主人公はさぞかし神様のようにすばらしい人物として描かれがちになるのですが、有子には自分勝手な面が多々あります。一番わかりやすいところで、コンビニでおでんを購入するときに全部別々の入れ物に入れてもらい、おつゆをパックの線ぎりぎりまで入れてもらうという、あまり他の人がしない買い方をします。本人は貧乏で安くおなかが一杯になり体の温まる物としてそのような買い方をするのでしょうが、さすがにコンビニでもそんな量のだしを取られることは想定されておりません。また、映画内で話される有子の心境についても、自分自身で自分勝手なことを言っていると言うぐらい自分勝手なことを言っています。でも、ホテルでの仕事はきちんとこなすし、別段犯罪を犯すような悪いところがあるかと言えば無く、他の人と同じような感じです。すなわち、有子は別にすばらしい人でも無ければ、悪い人でもない、ごく普通の女性なんです。ここの演出は監督自身が占部房子に自分を演じてくれれば良いと言っているように、「ボランティアに行く人=すばらしい志の人」という先入観を打ち消しているのだと思います。映画の中でマザーテレサに関する本を手に取るシーンが有るのですが、彼女は決してマザーテレサというわけではなく、私と同じように自分のためにボランティアに行く。そして生きるのが下手で、日本社会に対して窮屈に感じてしまう性格なんでしょう。 色々ネットでの感想を読んでいると、主人公に全く感情移入が出来ないという意見の方が多いように見られましたが、私自身はこの有子にものすごく感情移入できました。というのも、この人はもしかしたら私では無いかと言うぐらい自分と同じ行動を取り、同じような心境になっていると感じられたからです。一番感じたのは、父親が亡くなった葬式後の行動が、昔に私が同様の状況になったときに取ったのと同じでした。すべて推測にすぎませんが、有子は多分悲しいんだけど、悲しいという気持ちを隠したいのと、母親(ここでは義母)を元気づけたいために、怒るだろうと思うことを言ってけんかになる。そして自分は一人になってから落ちていくっていう気持ちの流れが、まさに私そのままでした。その時の有子の演技がすばらしいなあと見ていて感動。棒読みや動作が大げさと一部では言われていますけど、あの場面では棒読みになって正しいと思います。だって、気持ちが入っていない人が自分の本心とは違う言葉を発するだけなんですからね。他にも、恋人に振られるシーンやら、ぼーっとチャリンコを飛ばしているシーンなども、気持ちの変化と音楽の無音がリンクしており、良いなあと感じました。 一通り見終わったところで、この映画の持つ意味というのは、つまりバッシングと社会性の話題を持った作品であるとともに、一面では今落ち込んでいたり引きこもっている人たちへのメッセージを持ち合わせているのではないかと思いました。私も怪我をし、一日中家の中にいますと周りの目が気になり、「まだ、休んでいるの?」「いいねえ、休めて」など一般的にバッシングという言葉には分類されないかもしれないけれど、本人にとっては負担となる行為が周りからなされることが多々あり、どんどん気持ちが内を向いていきました。映画でも本人が言っているように「被害者なのに、なんで攻められなきゃならないの?」というまさにそのことです。これは相手の考えている内容が、自分の現在の価値観においてなされ、相手が非常にうらやましく感じ自分が被害を受けているように感じるからでしょう。「俺は休みが取れない。なのに彼はずっと休んで同じように生活できている。なぜだ?毎日働く俺があほみたいじゃないか!彼はせこい!」ということです。そこには、私の場合だと握力が激減しているなど負の材料は全くふくれておりません。なぜなら目で見えている相手には、見た目不具合が無く問題なく生きられているからです。たとえば、人質でも片腕ぐらい落とされて帰ってきていたのであれば、多分そんなにバッシングは無かったと思いますし、私の場合でも同様です。おそらくそれであれば、「行ったのは馬鹿だと思うけど、ちょっとかわいそうねえ」や「休んでいるのはうらやましいけど、仕方ないねえ」なんて意識が浸透すると思います。すなわちこれらのことがなければ、この状況を打破できるのは「対外的にものすごい強い意志」か「時間」しか無いと思います。それも映画中で父親の口から語られておりますが「待つって言うのは、辛いからねぇ」ということです。この映画で一番印象に残ったのは、何を隠そうこの言葉です。現在の私はのほほんと休んでおりますが、当初は先に見える無限の時間が恐ろしくなり「死んだ方が楽にはなるなあ」なんて意識になっておりました。待つって言うのは「自分自身との戦い」になり、「対外的では無いけれど強い意志」が必要になります。彼女の父親は残念bながら持ち合わせておらず残念な結果になってしまいました。 幸い、彼女や私はこの意志があったけど、とはいえ最後まで彼女も強かったのかというと最終的には彼女はこれらの状況を受け流し、自分の居所を探すために現状から逃げる方向に動いていきました。「自分がわがままなのはわかる、でもどうしようも無いんだよね」と言い残して、再び旅立ちました。 時が経てば有子も自分の居所を日本に見つけるかもしれませんし、やはり見つけられないまま日本にはない価値観で生きるのかもしれません。でも、父親とは違う方向に逃げ、新たな世界に飛び出したという勇気を見てあげてほしい。そんな締めで終わりました。拡大解釈すれば、監督は今の時代になじめない若者に対して、もっと自分の価値観で思いっきり生きろなんて意味もあるんじゃないかなあと感じました。 なので、私は結局バッシングが酷かったやらそこらへんの印象は特に受けず、有子にだけ感情移入してしまった感想となってしまいました。 さて、映画本編の感想を書いたところで、その他のどうでもよい感想です。 やっぱりアナログフィルムが作り出す映像は良いですねえ。なんとも言えない落ち着きがあります。動画の編集方法や音楽の当て方など、すでにどこかの作品で用いられたような枯れた方法が色々使われていますけど、それがすべてぴったりとはまり、とてもうまい作品になっています。 ほかに、ネタのような感想は ・北海道人は鍵をかけないのは本当だということがわかりました。あの方も全然かけていなかったように映画でも全然かけていません。びっくりです。 ・北海道人なら呑む瓶ビールをサッポロ黒ラベルではなく、サッポロラガーを呑んでほしかった。 ・映画に登場するコンビニであるセイコーマートはよく撮影許可を下ろしたと思います。これは実際に映画を見ていただければわかりますが、かなりこのコンビニの取る態度が客商売といえないことをするからです。映画の中だと言うことがわかっていても、イメージがコンビニブランドに対して少なからず響いてしまうと思うのに、よくやったなあと。 ・これは本編と関係ないけれど、次回予告に「マンゴと黒砂糖〜今年もふるさとに帰る南洋群島帰還者たち〜」というサイパンなど南洋諸島に開拓に行った人たちが太平洋戦争を乗り越えて、どのような考えを持っているかという反戦的と思われる映画の予告があったのですが、その最後に「2004 年に天皇陛下がサイパン訪問時?(うろ覚え)にご覧になりました」というテロップが一行流れました。私にはこの最後の一行の意味が全くわかりません。私が感じたのは「天皇も見たぐらいすばらしい映画なので見に来いよ!」ってことだけです。この一行を入れることにより、なにか折角の意志を持った映画だったはずなのに、商業映画と同じような陳腐な作品になってしまったような感じがします。本編は見ておりませんのではっきりは言えませんけど、予告編を見る限りそのように感じました。入れるのであれば、ドキュメンタリーとしてどのような感想を持たれたかなどを一通り伝えるべきだと思いました。 本日の気分:長いなあ:0 時間( 計 0 時間 ) |
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